894年、菅原道真の意見により遣唐使を停止する。
遣唐使の目的は?
遣唐使(けんとうし)は、政府から任命された使者が、唐の王室(おうしつ)に遣(つか)わされる公式の使節(しせつ)である。その主な目的は、唐の先進的(せんしんてき)な政治制度や技術、文化、仏教の経典(きょうてん)などを調査して日本へ持ち帰ること、そして、武具(ぶぐ)を始めとした物品の商取引を行なうことである。
遣唐使(けんとうし)は、630年から894年の約250年の間に19回任命され、そのうち15回実施された。遣唐使(けんとうし)がもたらした情報は、奈良時代から平安時代の初期に、日本の政治・社会・文化に対する大きな刺激となった。
その間、日本は漢文化を受容(じゅよう)して貴族文化を形成した。
しかし、9世紀後半になると、黄巣の乱(こうそうのらん)が起きて唐は衰退(すいたい)、日本の律令政府(りつりょうせいふ)にとっても遣唐使(けんとうし)を派遣(はけん)することが負担となってきた。
そこで、宇多天皇(うだてんのう)のときに、遣唐使(けんとうし)に任命(にんめい)された菅原道真(すがわらのみちざね)が遣唐使(けんとうし)の停止を進言(しんげん)。その結果、遣唐使(けんとうし)は894年をもって停止されることとなった。
遣唐使は、実は894年に停止されていない?
実は、894年に何故遣唐使(けんとうし)が停止されたのか、そのはっきりした理由は良く分かっていない。
それどころか、学校で習う(このページでも取り上げている)「894年 遣唐使停止(けんとうしていし)」というのも、厳密(げんみつ)には違う可能性がある。
984年、日本では遣唐使(けんとうし)の派遣を計画していて、確かにその計画は中止された。そして、その時の代表者が菅原道真(すがわらのみちざね)であり、中止を提案したのも菅原道真(すがわらのみちざね)である。
ここまでは確かだが、中止後も菅原道真(すがわらのみちざね)の大使としての任は解かれなかった。ということは、中止は一時的なもので、894年時点では遣唐使(けんとうし)自体は停止にまで至っていなかった可能性がある。
大使であった菅原道真(すがわらのみちざね)は、901年に藤原時平(ふじわらのときひら)との政争(せいそう)に敗れ、大宰府(だざいふ)へ左遷(させん)されるが、同時に遣唐使(けんとうし)の大使という任も自然消滅してしまう。
そして、その後大使として任命される人物も登場せず、遣唐使(けんとうし)の派遣計画も自然消滅してしまった。
つまり、「遣唐使(けんとうし)は停止する!」と誰かがきっぱりと決めたわけではなく、自然と派遣計画が消滅していったため、何故停止されたのか、いつ停止されたのか、明確に分かっていないのである。